日記

祖父が死んだと母から電話を貰った時、私と連れのYは沖縄本島の最北端である辺戸岬に向かって車で走っていた。4月。私とYはその前日から沖縄の山原(やんばる)というところに滞在していた。私たちはやんばるに行くまでの道中で、あるドラッグを摂取していて、それが効き始めたのは日が沈みはじめる頃だった。といっても、明らかなスイッチがあったというわけではなくて、振り返ってみたらあれがそうかなくらいのものだった。自分がそのドラッグを摂取するのは初めての事だったという事も書いておきたい。

海沿いの大きな道を車で走っていた。

空は今にも海に沈んでしまいそうなほど低く、分厚い雲からは天使の梯子が何本も降りていて、光が海を柔らかに照らしていた。その光景を眺めていると、昔沖縄の離島で出会ったラスタのイメージが雲の上に浮かんできて、神々しく光りはじめた。

書いていて、笑ってしまいそうだが、ラスタの顔そのものが幻覚として浮かび上がったというよりも、雲を見ていると彼から感じていた暖かな雰囲気を思い出すような感じだった。


宿をまだとっていなかった私とYは、いよいよ効いてくる前に、と近くに車を泊められそうな場所を探して、国立公園の駐車場で、沈みかけた太陽を背に車を止めた。Yが携帯で近くの宿を探して、片っ端から電話していった。私は、車の中で目の前に置かれていた昼間にコザ市の商店街の店で買った甘ったるいマフィンの存在がどうしても気になっていた。普段なら私たちが選ぶはずもないが、旅行先でなんとなく店に入ってしまったからには、と買ったそのマフィンが、いま目の前にするとすごくどうしようもないものに思えて、我慢ならなくて、Yが電話をしてる間にそのマフィンを車の窓から外に投げつけた。

Yは電話で、こんなに突然で申し訳ないのだが、とはじめに言って、何件か断られたが、少し間があって、宿泊を了承してくれた宿の人がいた。その民宿は自分達がいる海のそばの国立公園の駐車場の場所からはちょうど反対側の海の近くで、山を一つ越えなければならなかった。いよいよ意識が混濁としてきた私にはとても辿り着ける自信がなくて、もう電話で予約は取ってしまったものの、今夜は車で寝るしかないんじゃないかと言うと、Yは、宿のお爺が今か今かと自分たちの為に準備して待ってくれているだろうから、行こうよ、と。

 

日は完全に沈んでいて、外は真っ暗闇だった。

灯りの無い山中を車のライトで照らしながらかろうじて前に進めるといった具合で、Yの運転は日頃から信用していたが、こういう状態で、人に運転出来る能力が果たしてあるのかなんて私は知らなかった。

いつなにがあるか分からない状況だったが、私にとってYは最も信頼を置いてる人だったので、一旦自分のすべてを委ねようと覚悟をすると、次にはそのまま眠りについてしまいたいと思うほどの深い安心があった。一瞬Yがヘッドライトを消すと、暗闇の中で息を潜めた私たちが信じられるのは、自分達の感覚だけで、それはまるで美しい野生種の様だった。

そうして山道を越えて、私たちは山の麓の小さな集落へ辿り着いた。集落の中心には小さな公民館があり、公民館と家々を結ぶ川には橋が架けられていた。海も近くにあるのだろう。どこからか磯の香りもする。

集落の家からは淡い光と音が漏れていて、それはオレンジやブルーの光だったり、テレビの音や食器の音や話し声だったりしたが、私に届く頃にはすべてが目に見えない無数の粒子となっていた。

花や木や街灯はあくまでしんとした佇まいでそこにあったが、粒子は花粉のようにあたりを舞って、それら花々や木々やぽつんぽつんと光る街灯を昼間とは違った不思議な姿に見せていた。

 

宿に着くと沖縄語の美しい訛りを持ったお爺が迎えてくれた。

こんな夜に突然やってきた赤の他人を自分の家に迎えてくれるなんて。私たちが逃げてきた殺人鬼かも分からないのに。沖縄ではそういう話は本当に多いのだ。私は来てよかったと思った。

「朝、六時にご飯を下に用意しておくから」

私とYは深く感謝してお爺におやすみを言った。

部屋で少し時間が経った後、外を散歩しようとYが言って、外に出た。外では、来た時に気づかなかった生き物たちの濃密な気配が、濃い闇に溶け合っていたが、眩しいほどの月の光が辺りの輪郭を浮き上がらせていた。暗闇の中で近くの鳥がバサッと大きく羽ばたいて、遠くの山のほうに消えて行ったのを私とYは見ていた。山の方からひんやりと漂ってくる空気を皮膚の上で感じていたが、それは私に落ち着きを失わせた。その空気は、山がもうとっくに私たちの居場所ではない、別世界である事を感じさせた。

Yが、「地名は人間が自然と闘った記しなんだ」という事や、たたら製鉄民間信仰の事などを少し言ったので、その事を考えていた。

山は完全に別世界だ。私たちの住む世界とは遠くかけ離れている。

私達の祖先が、ずっと昔に山を放棄した。今では、かろうじて、山の麓に住ませてもらっている。そんな人々の気の遠くなるような営みを想像すると、人間の欲深さ、業の深さという部分と、その可愛らしさ、ひたむきさ、が、胸に迫るように感じて、思いを巡らせながら、家々の灯りと背後に連なる山を見ていた。田舎によくあるような見慣れた感じの集落なのだが、原始的と言われればそんな感じもするし、近未来のコミューンという雰囲気もした。かつてそこに住んでいた、また、これから住むであろう人々の無数の思考を追体験している気分になって、自分も紛れもないその輪の中の1人なのだと認識すると同時に、自分が何処にいるのかまったく分からなくなるような、過去や現在や未来が同時にある、恐ろしいけれど、心地よい、空気が立ち上がっていた。

 

ゆっくりと橋の方に向かって歩いていくと、水が一滴づつ、ぽちゃんぽちゃんと滴り落ちる音が微かに聞こえてきて、橋の上に立つとその音はくっきりと輪郭を持ち、耳を撫でた。

私とYは橋の袂に座り込んだ。

ふと空を見上げると、雲がゆっくりと晴れて、満月に近い月が顔を現していた。

それから、静かに時間が流れて、私たちは言葉を交わしたり、月を見たり、水の音を聞いたりしていた。


宿に戻ると、具合が悪くなった。

身体は意識を遮断して、休む事を欲していたが、それができなかった。目を閉じても目を閉じる事ができない。混沌の中、普段自分がしてるすべての行為は、外側にいる自分が身体を操っているものなのではないか、そんな考えに陥った。何を触っているかも分からないまま、とにかく自分の身体を操ることに集中した。シャワーを浴びに、浴室にいった。

私は、こういう時に鏡を見てはいけないという決まり事を忘れていたので、ふと一度鏡が目に入るとそこから目を離せなくなった。自分の眼や手や脳味噌はどれもすごく不確かなものだった。私は普段自分がやっているルーティンの感覚だけを頼りに身体や顔を丁寧に洗った。こんな時に唯一頼りになるのはそれまでの人生で培ってきた一つ一つのルーティンで、それが例えば、シャンプーをする、とか、泡立てて顔を洗う、とか普段の何気ない事でもいいのだという事を知った。

タオルで身体を拭いて、愛用しているスキンケアをすませると感覚は研ぎ澄まされ、クリアになっていて、日頃の自分の行いに心から感謝した。

それから朝までも色んなことがあったけど、それはとりあえず割愛。

 

朝、朝ごはんの知らせに来てくれたお爺のノックと共にそれまでバラバラだった意識のトンネルの入り口と出口が見えて、そのふたつがちゃんと繋がってた事に深く安堵した。

食堂に降りると、お婆がつくった朝ごはんがきちんと2人分用意されていて、暖かく柔らかな湯気を出していた。

自分の身体を外側にいる自分が操るような堂々巡りの感覚はまだ少し残っていたが、目玉焼きや、米粒なんかを箸で口に運ぶたびに、背筋が伸びていき、徐々にその感覚は消えていった。外側にいた自分は元居た場所に戻っていくようだった。

食堂には様々なポスターやチラシが貼られており、朝日がそこに差し込み、暗い室内の影とのコントラストを作っていた。

それらは公民館のお知らせや、ゴミの回収日についてなどだったが、ゆらゆらと浮かび上がる文字列はいかにも愛らしく、人間の社会というものに親しみを覚えた。

Yも私も朝ごはんをしっかりと完食し、朝ごはんを作ってくれたお婆に挨拶をしにいった。お婆は軒下で作業をしていた。

もともとお爺はこの村の村長だったのよ、と教えてくれた。お婆はこの辺で生まれ育ち、小さい頃から大人の仕事の手伝いをしていたそうだ。この辺りは木の伐採や加工で生計を立てる人が多いらしく、何キロも先の那覇の人にこの村の木はとても質が良いんだと褒められたのが、とても嬉しかったと話してくれた。お婆の佇まいは力強く、清らかで、本当にこの人たちに出会えて良かったとYと2人でその偶然を喜んだ。

できるだけの感謝を伝えて、お婆お爺と別れた後、お婆に教えてもらった何かを祀っているらしい山に行くことにした。お婆の言葉には沖縄言葉が混じっていてそれがどういった場所かはよく聞き取ることができなかった。

山を登り始めて、途中で神事を行う小さなノロ殿内があり、その周りにたくさん蟻が死んでいた。

さらに登っていくと風通しのよいひらけた場所に出た。海が一望でき、横に石碑があった。

 

安波の真はんたや 

肝すかれ所ち

宇久の松下や

ねなしところ

(安波あはのマハンタは(見晴らし良く)心すがすがしい所、

宇久うくの松の木の下は(ひと休みに)横になる所。)

 

安波節という歌の発祥の地として、石碑に詩が刻まれていた。

この地域は、川と川の合流する付近に集落が形成されていて、その二つの川は太平洋に流れ込む。

自分たちがいる場所はまさに川と太平洋の合流地点を見渡せる地点であった。

説明文には、「人々が農作業を終え、太平洋からの涼しい潮風と緑豊かな山々からの風に当たると何ともいえない気持ちになった」という事が書かれていた。

 

この何時間後かに私の祖父が死に、急いで東京に戻る事になるのだが、またその時に思った事も書き記したい。この沖縄での体験は私に深い感動と、色々な事を考えるきっかけをくれた。ここに書いた事はそのごく僅かなので、また何かのタイミングでそれも書きたい。

Yと民宿のお爺お婆に感謝。

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